私の父親が、肝内胆管癌(特殊型,MiENE型)、脳、肺転移であると宣告された。余命は年内だそうだ。
私から見た父親
私にとって一番大切な親族は誰か。そう問われた場合、私は真っ先に父親と回答するだろう。
正直に言って、子の模範となるような父親ではない。
気は短い。人遣いは荒い。健康管理がなってない。生活習慣病持ち。金遣いは人生を破綻させる寸前に行ったレベルで破滅的。人生設計は滅茶苦茶。子への過剰な期待。それでいて学費は自腹。
挙げていけばキリがない。詳細に書けば2万字はくだらない。
周りに愚痴を吐くと、「お前の親ほど酷い親はいないよ」と言われる具合だ。
こんな人間だが、いいところはある。仕事は人一倍熱心。コミュニケーションは下手ながら、人付き合いは悪くない。同期や部下からは慕われていた。手先は器用。情報弱者の括りにはいない。
とにかく自己完結型の人間で、本人もそれを希望していた。最近まで手のかかることはなかった。
私のコンピュータ関連や工作に関する知識は父親が授けてくれた。会社から不要なものを持ってきて、触らせてくれたりもした。
そして、当初の期待からすれば出来損ないの内に入るであろう私を、「お前は自慢の息子だ」と言ってくれたし、22歳になるまで育ててくれたのだ。
最近の父親
親父は会社を定年まで働き、定年後再雇用、それが終わった後もフリーランスの扱いでずっと働いていた。直近は働きづめという感じでもなく、年金と合わせて満足のいくぐらいに働いている様子だった。
休日は家でベッドから動かず、動画を見たり、競馬や競艇をやっていた。その関係でよく母親と喧嘩していたが、最近は母親の方も忙しいのであまり構うことはなく、本人もそれを望んでいた。
私がリビングから顔を出すと、やっていることを中断してこちらを見て話しかけてくれる。今日は大学か?図書館?それとも秋葉行くのか?夕飯は何食う?そんな話が多かった。
歳を取るにつれ、普段からあまり出かけない父親が家にいる時間はさらに増えた。体調が悪いといって早退することも。病院に行かないのか?と聞いても「寝たら治る」と言って寝、翌日には会社に出ていた。
今年の春には家族で中国に行った。私は生まれた直後から5歳になるまで中国で母方の婆さんに育てられていた。完全に非公式なものではあるが、中国名もある。育ててくれた婆さんの墓参りがメインで、あとは観光だ。行くときは渋っていたが、帰り際には来てよかったなあなんて言っていた。
体調の悪化
そんな父親が体調を崩し始めたのは10月の中旬だ。「体調が悪いなあ」といって会社を早退してきた。
少し寒くなってきた頃合いなのに「暑い」といって冷房をかけたりしていた。本気で心配したのだが、またしても「寝れば治る」だ。言っても聞かないので、その日は寝るのを見守った。
翌日になると会社に行っていない。非常事態だ。話を聞くと、「左足が上手く動かねえんだ」と。
病院に行かせようとしたが、「いい」と。動けないなら救急車を呼ぶか?「やめろ。行くから。わかったから。水曜に行くから。約束だ。」
私は足が動かないと聞いて、脳が頭によぎった。早く病院に行かせたかった。しかし本人は「肥満症だろ。最近は腰も痛てえし。内科に行く。何も見つからなかったら神経、脳外科と行くよ。」という。
一回目の水曜日
水曜日。午前中に内科→神経科と行った。しかし何も見つからなかった。脳神経外科は午後まで休診。
午後になって、私はアルバイトに行っていた。店長には前もって「父親がもしかすると重大な病気かもしれないので、何かあった際は早退しても良いでしょうか?」と聞いていた。「構わない。携帯も常に持っていて良い。」と融通を効かせてくれた。
16時30分。バックヤードのテレビでアメリカ大統領選の話をやっていた頃、電話がかかってきた。
「やっぱり何か良くねえものがあるみてえだ。家族を呼んでくれと言われてる。来れないか?」
すぐに作業を中断して現場に向かった。
「脳出血か脳腫瘍か、現段階では判断できないが、足が上手く動かせないのはそれが原因だ。両方ある可能性もある。腫瘍とすると、転移してきてるものという可能性もある。そうじゃないなら、手術でどうにかできる。」
手術に関しては自身があるような言い方だった。慈恵系の先生だ。
即時入院の措置を取った。
地域の私立病院で、少し小さいながらも脳の方面では定評のある病院だ。私も頭を打ち付けた際にお世話になった。しかし施設も古めで、それ以外の分野ではできることが本当に少ない。そのことをわかっているようで緊急を要するのであれば転院しましょうと言っていた。
入院と経過
入院後、一回目の面会では歩き方もマシになっていて、なんだか元気そうだった。
本人は「もう退院してもいいぐらいだけどな」と言っていた。
医師も「脳出血だろうと。引いていくようなら退院でもいいが、アフターはしっかり見ないといけない」と話していた。この時点では即時命に関わるものではなかった。
二回目の面会ではあまり元気がなさそうだった。どうしたんだ?と聞くと、「わからない」と答えた。「食欲が湧かないんだ。ここのメシはまずい。小さい病院だしちゃんと診てんのかわからない。隣のジイさんの鼾はうるさいし。早く帰りたいよ。」
そう言っていた。医師からは「肝臓の数値が良くない。面会時に酒を渡したりはしていないか?」と聞かれた。そんなことはしていない。見てみると、素人ながらも異常な数値であることがわかった。
「造影剤を入れて見たら、胆石のようなものが見えるんです。肺にも小さい影がある。紹介状を書きますので、退院後、診てもらってください。」
「すぐに転院した方がいいのではないのか?」「ダメです。まだはっきりしていない部分も多い。まずは脳の件です。1週間後と言いたいですが、私の用事もあるので、3日後の月曜日、私がいるタイミングで退院しましょう。」
不安が増してきた。大丈夫なのか?明らかに顔色が悪い。
一回目の退院
11月上旬の月曜日、退院しました。次回予約は月末となっていて、「それより前に紹介状の病院に診てもらってください。」と言われた。
父は自分で歩ける状態だった。顔色は普通だったが、かなり痩せたようだった。時計のコマが合わないレベルである。
「あの病院ではあまり寝れなかったから、帰ったら寝たいなあ。美味いもんも食べたいよ。」
部屋を少し掃除して、眠れるようにした。寿司も買ってきて食べさせた。本人は、満足そうだった。
火曜日、病院に行かせようとしたが「あまり眠れてないんだよ。」と言い拒否。明らかに顔色が悪い、確実に黄疸が出ている。ここでも救急車を呼ぼうとした。「やめろ、明日、明日絶対に行くから。」
言って聞かなかった。「水曜日、一番早い時間に行くぞ」と私が言った。父は頷いた。
二回目の水曜日
水曜日だ。父を病院に連れていこうとする。
「入院してて、ずっと寝てたからかずいぶん体力が落ちたなあ。タクシーで行かないか?」
行く気になってくれた。手段なんかなんでも良い。タクシーを呼んだ。なかなか来ない。15分で来た。
紹介状、退院証明書、CD、保険証を渡して書類を書いた。何か所も検査に回された。病院は撮影禁止だった。
途中で「なんだか動くのがつらいなあ」というので、車椅子に乗せた。「お前、車椅子あんまり上手くねえなあ」と言われた。「悪かったな」と返した。
9時について15時まで検査。途中辛そうなので、近くの看護師に横にさせられる場所はないか?と聞いた。処置室という場所で寝かせてくれた。
15時30分。呼び出された。本人は部屋の外で、家族だけ来てくれと言われた。身構えた。
「消化器内科の〇〇です。よろしくお願いいたします。」「よろしくお願いいたします。」
「今から大事なことを聞きます。」「はい。」
「下手すると明日にでも亡くなってしまう可能性があります。」
「回復の見込みがない場合の延命措置について、希望しますか?」
頭が真っ白になった。涙が溢れてきた。
以前本人が「死ぬときは、楽に逝きてえなあ。」「脳死なんかの状態になって生きるぐらいなら死んだほうがマシだろ」と言っていたのを思い出した。
私は「希望しない」と答え、同意書を書いた。
涙を堪えられなかった。戻った際、これではだいたい察しがついてしまう。抑えようとした。無理だった。自分はやはり弱い人間だ。
「もう少し早く見つけていれば・・・可能性は・・・」
「この病状では・・・たとえ、最初の異変の夏場であったとしても難しいのではないのかなと・・・」
父親が背中が痛い等と言い出したのは夏場だ。そのタイミングで見つけたとしても、難しいのではないかとのことだった。嘘だと思いたかった。
泣きながら入院の処理を行った。病院側も配慮してくれたのか、父親は先に病室に送られていた。
30分ほどして、涙を抑え、病室に向かい、現状の説明をした。
入院と経過
「下手すると明日にでも亡くなってしまう可能性があります。」
この言葉が頭から離れなかった。不眠が悪化した。手が震えた。日付が変わり、必要なものを渡しに面会に行った。
病室で見た親父は普通に立っており、トイレから出てきた。
?????
「おう、なんか点滴したら元気になったわ」
そんなことある?????
しばらくして、看護師が来た。30分ほど待って欲しい。医師から話がある。そう言われた。
その間、親父の様子を見てみると、昨日よりはマシだが、やはり一回目の入院前よりは弱っている。
しかし少しだけ安心した。昨日は車椅子で運び、ほとんど横になっていた人間が普通に立っている。
少しして医師が現れ、話をする運びになった。
「原発不明の癌、おそらくは肺と見て良いのでしょうが、これが脳と肝に転移しています。」
「胆石のようなもの、というのは癌です。これだけ進行していますから、治療を行うのであればもっと専門的なところに行く必要があります。ここでは放射線治療が本来できるのですが、今は設備を入れ替えています。」
「肺と見た場合、肺の癌は小さすぎます。脳は原発ではないと思います。リンパは綺麗です。胃カメラの写真を転送してもらいましたが胃はきれい。現状を原発不明癌として治療することは可能で、肺癌と治療法もあまり変わりません。」
「しかしながら私は癌が専門ではないのです。私としては、外科手術は不可能で、薬での治療は難しいと考えています。しかしながら、もっと専門的な所に行けば治療ができるかもわからないので、検査を進めて、放射線科の先生とも話し合いを進めていく必要があります。病院の候補をいくつか挙げるので、1週間程度で再度転院しましょう。呼吸器内科と腫瘍内科へ紹介状を書きます。」
詳細に病状と見解を教えていただいた。いくつか挙げていただいた機関の中から、その場で決めた。ここで回答を保留すると先方からの返信が来週になる。金曜に間に合えば、回答自体はその週で得られると思った。そして候補先の機関には県内では名の知れた所もあった。おそらくは、ここも受け入れが可能であろうと。
今回の先生は慶應系の先生で、近隣の同じ慶應系の先生なら顔が利くらしい。「私は不可能だと思うが、専門的な所なら可能かもしれない。」この言葉で希望を持ってしまった。
それは間違いだった。
転院先の決定と答え
11月22日、金曜日。候補先にFAXを入れるも回答が得られていない様子だった。
ここでも、昨日と変わらないような内容の説明を受けた。帰宅後、買い物をしている最中に電話がかかってきた。
「先方から電話がかかってきました。本来こういったのは検査してからでないと回答してもらえないのですが、特別に、今回は向こうのご厚意で電話で回答していただきました。
結論から言って、処置は不可能である。とのことでした。もう時間も残されていないでしょうから、総合病院で緩和治療に移るべきだ。こちらとしては来ていただいても構わないが、同じ回答になるでしょう。
ということでした。ですので、予約の日程を決めて、月曜日退院というわけにはいきませんが、火曜日退院で、水曜日予約、そしておそらくは入院で調整しましょう。」
またしても水曜日。わざわざ電話で、できません。と言われてしまったことになる。
緩和治療というのは実質的に楽に死ねるようにするためのものだと理解している。(医療従事者の方が見たら、反発するでしょうが。)
この時点で、すべては決まってしまった。しかし、私は聞いてみた。
「先生、有明がん研は、築地の国立がん研はどうなんですか、先生、紹介状なら書けるって言ってましたよね、私らの負担は構いません。そこなら治療ができる可能性はないんですか。」
「・・・紹介状は書けます。止めることはしません。しかし、根本的な治療の可能性については、ないでしょう。先方からの回答の通り、がん研でも、検査して「難しい」と答えると思います。」
「冷静に考えてみてください。基礎的ながん治療に関しては、県でできないものが国ならできる、ということはほぼあり得ません。それはこの国の医療体制がおかしいことを意味してしまいます。」
「がんに限った話、基礎のレベルは確かにがん研の方が高いと思います。しかし、あちらは総合病院ではありません。特定の分野で困難があるものを、積極的な治療で解決するのであれば。専門的ながんセンターの方が良いでしょう。しかし、総合的に診る上で、何よりこの体調で、何か事が起きたら死を覚悟しないといけない、この状況では、私は良い選択だと考えません。」
何も言い返せなくなってしまった。候補先の総合病院の1つが事実上残された選択肢だ。
その病院は父親の会社のかつての上司が亡くなった病院だそうで、父親は「ここには行きたくねえなあ」と言っていた。
しかし私たちには選択肢がなくなってしまった。その病院で、緩和治療と舵を切ることになった。
二回目の退院
退院の火曜日。書類を見てみると、糖尿病の薬の他に処方されている薬が増えていた。
これはなんだと聞いてみると、「先生に処方してもらったんだ。家族の前で、辛そうに退院するのは嫌だよ。何かないのか。と聞いたら、仕方ないと出してもらったんだ。それを飲んだら、なんだか元気だよ。食欲も出てきたぞ。」
説明を読んだ。ステロイドだった。食欲亢進(こうしん)の副作用があると聞いたことがある。ついでにハゲる。効能、副作用。はっきりした薬だ。再転院にはもちろん検査もある。奥の手のようなものを、今使った。基本的には悪手なのだろう。前向きな回答の可能性は、なくなったといえる。
退院後は好きなものを食べていた。何なら自分で入浴までしていた。これが「明日死ぬ」と言われた人間の状態か?ただ体力のないだけの爺さんだろう。何かの間違いだろう。
入浴後に部屋までついて行った。湿布を貼ってくれと言われたので貼った。着替えも自分でしていた。
下腹部を見てみると、いつものビール腹の下がぷにゃぷにゃしていた。触ってみた。水っぽかった。
親父はかなり痩せた。10kgは落ちた。もともと低身長なのに、自分よりも体重があった。痩せてもまだ同じだけある。肥満のまま。肉がたるんだのか、水なのか。わからなかった。分かりたくもなかった。
三回目の水曜日
私は単純な人間だ。この一件で、私は水曜日というものが嫌いになってしまった。
私は弱い人間だ。「もう無理だ。」母にも、父にも、しっかり言えなかった。
「もし肝臓の数値が良くなることがあれば抗がん剤が使える。今は緩和治療だ。それでも、手がつけられるはずの脳と肺の放射線はやってくれるだろう。高額医療費の上限申請をしないとな。」
適当なことを答えてしまった。それはすべきではなかった。父も、母も、わずかながら希望を持ってしまったかもしれない。
「昨日の薬、ステロイドだ。ハゲるぞ。食欲もそれが原因だぞ。」
おお、そうか。という反応だった。ハゲてもいいじゃねえか、俺もニット帽を被るのか?という反応だった。わかっていないのだ。
行きはまたタクシーだ。今の状態で体に負荷をかけるわけにはいかない。
受付で紹介状を渡し、マイナ保険証の照合と、書類を書いた。検査に回された。
今回は検査は少なかった。
1時間して「家族の代表者の方」と呼び出された。「俺が行くよ。」と言い、一人で行ったのに、母親が父親を連れて来てしまった。
先生は難儀した顔だったが、「本人が聞くのも、仕方ありません。ですが、落ち着いて聞いてください。」
「前の病院ではどういう話をされましたか?」
「ええと、肺癌、もしくは原発不明癌で、腫瘍が脳、肺、肝臓にある状態だという説明でした。」
「うーん・・・。そうですね・・・。結論から言うと、肝内胆管癌という癌の、特殊型です。」
「MiENE型という型で、これは略称ですね。本当に稀に見られる、珍しい型です。」
「外科手術以外の治療手段はありません。ですので、積極的な治療、というものは難しいです。」
「これは、早く見つけられていれば・・・時間は・・・」
「この型は、早く見つけたとしても、難しいのではないのかなと・・・。どうも病状は急速に進行しているようですし、最初の病院から直行だったとしても・・・」
「当院では、緩和治療を行い、在宅診療への移行のためのお手伝いをします。ご家族の方も、準備の時間は必要で、当院もケアマネージャーや診療医師選定等を行う必要があるため、その間は緩和病棟で入院といたしましょう。」
母も父も、黙ってしまった。母は、涙が今にも溢れようとしていた。
「ちょっと待ってください。やはり父は肝臓がガンが進行するよりも先に肝臓が持たないという状態なのですか」
「そうとも言えます」
「ガンが進行しているよりも、肝硬変等が起きているのですか?」
「どちらかが、というわけではなく、どちらも起きています。半々と見ることもできます。」
「現在、例えば私の、肝移植という可能性は・・・」
「断言します。それは絶対に適応できません。そんなことをしてしまえば、確実に術死してしまいます。確かに、適合する可能性で言えば息子さんの肝です。しかし、他に転移が生じている状態での移植手術というのは、行えないというのが原則です。」
「・・・お気持ちはわかります。しかし、見通しでは、年内は持つでしょう。」
「前の機関では、週単位で見たほうがいいと言っていましたが、年ですか!?」
「見通しという面では週単位で見ようというので変わりません。目安です。この一か月で、できるだけの準備をしましょう。」
何も変わらなかった。とも言える。しかしこれではっきりした。あの人はもう助からないのだ。
三回目の入院と、現時点までの経過
今度の病院は、毎日でも面会ができる病院だ。しかも病棟の種類が一般のものではないので、時間の面も融通が利く。可能な限り、時間を共にした方が良い、と言われた。
結局、原因は不明で、病名、病状だけが判明した。
宣告された肝内胆管がんについて、少し調べてみた。正常な肝臓に発生することがほとんどだが、肝炎のウイルスが原因という話もあるようだ。
父は、世代的に学校での集団接種を受けた世代だ。肝炎の訴訟の問題があるが、昭和23年~昭和63年というと、親父が集団接種を受けたのは昭和40年代なので、十分可能性はある。
医師に聞いてみると、「検査するのは構わないが、大丈夫だとは思う。BとCなら調べられる。」と言われた。
大丈夫だと思う、ということは可能性は低いということだろう。それもそうである。何十年保菌して発症したんだという話になるわけだ。
最初の病院は手続きと枠の関係でなかなか難しかったが、前の病院から今の病院では毎日面会に行っている。
なんだか元気そうにしているような気がする。血圧も入院当初より安定している。
この人が死ぬのか?
しかしSpO2は93%、血糖値も糖尿病の薬をやめて注射で制御するようになった。
黄疸もさらに目立つようになってきた。だんだんと、弱っているのだろう。
正直言って、まだ親父が死ぬという事実を理解することができない。
子供は死を理解していないということなのかもしれない。最初に祖父が死に、母方の祖母も死に、次に遠方の近親が死んだ(これは今年のことである)。それ以外は私が生まれる前から死んでいる。今までは、苦しさや辛さにまだ耐えることができた。しかし今回ばかりは、当分引きずりそうである。
「お前が普段通りしている方が、俺はうれしいよ」
できるはずがないだろう。そんなこと。
「覚悟はできてるが、せめてお前の嫁さんや、子供を見たかった」
やめてくれ。22だぞ。高校卒業してストレートに就職して相手探してもなかなか難しいじゃないか。
「俺は大家族で苦労したが、この家は死んだらお前が家長だ、相続はお前以外にする人間もいない。」
「遺族年金は母ちゃんが受給して、お前は年800万なんて余裕で稼げるようになれ」
「ほとんど残すものがなくて、ごめんな」
何も返せない。
私は、この残された時間で、何をしたら良いのだろうか。今日も悩み続けることになる。
そして、死の意味を理解するために、強き大人になるために、乗り越えないといけないのだ。
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